今年の吹筆会展に 出品した帖作品ですが

書家以外の 芸術家 作家などの 書の想いを 簡単に

私の好きなところだけ選んだ言葉を書いたものです

源氏物語 帚木から

手を書きたるにも 深きことはなくて ここかしこの 点長にはしり書き 

そこはかとなくけしきばめるは うち見るに かどかどしくけしきだちたれど 

なほまことの筋をこまやかに書きえたるは うはべの筆消えてみゆれど 

今ひとたび取りならべて見れば なほ実になむよりける 

 

無名草子 から

 亡き人などの書きたる物など見るは いみじくあはれに歳月のおほく積り

 たるも只今筆うちぬらして書きたるやうなるこそ かへすかへすめでたけれ

平家物語 から

 はかなき筆の跡こそ長き世の形見にてさぶらへ 人の形見には手跡にすぎたる

 ものそなき

尊円親王

 仮令(たとえば)字形は人の容貌、筆勢はひとの心操(心構え)行跡にて候

 

良寛       

 良寛禅師 人に語って曰ク

 

「貧道ノ好マザル物三アリ 

  

 詩人ノ詩、或イハ歌人トモイフ 

 

 書家ノ書 膳夫ノ調食ナリ」 ト

  

 

田能村竹田

 

心と目と通じ、目と筆を合す。謂はゆる意は筆先に或る也。

会津八一 

 

書道について

  

習字の手本を見て、それと同じものを書くといふことは類似品を作ること あって、

悪くいふならば贋物を造るだけのことであって、手本を書いた人の人格とか、

その人の趣味とか、いふものを、何もおかまいなしに、ただ手本の字を、

そっくりそのまま書かうと、一生懸命になってゐる。だから、眼の方の

練習になるかも知れぬが、字といふものは、そんなことでは学ぶことは出来ない。                              

                             講演より 

 

高村光太郎

  

書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う。

力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。  「書について」

魯山人

   書は人物次第である

  一流人物の書は 精彩であって生きている。

  二流人物となると 半死半生である。

三流人物 すべてに取るところはなく最早問題にならない。

山村暮鳥

  芸術は表現である といはれる。 それでいい。 

  

  だが ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには表現されたもの以外に

 

  何かがなくてはならない。これが大切な一事である。

      

 このほか 画家熊谷守一 中川一政 棟方志功 安田靫彦

      作家川端康成 保田輿重郎 加藤楸邨  武者小路実篤 ・・・・

      の言葉については・・・ またの機会に記事にしたいと思います